この酒は、NYで生まれた。72歳の会長とその夢が、その人生をかけて

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この酒は、NYで生まれた。
72歳の会長とその夢が、
その人生をかけて
かつて「獺祭」は、山口県岩国市の奥地・獺越(おそごえ)にある、名もなき酒蔵だった。
三代目・桜井博志氏が継いだ当時は、安価な酒を造り続け、経営も苦しく「負け組の酒蔵」と自ら語る状況だった。
転機は1990年。桜井氏は“純米大吟醸だけで勝負する”という決断を下す。
杜氏(酒造りの名人)に頼らず、社員全員で四季を通して造る「チーム醸造」を掲げ、精米歩合の限界に挑む。 時代に合わないと言われながらも、“誰よりも美味いと思える酒”を目指して走り続けた。
その結果、獺祭は今や世界に知られる“SAKE”の代表となった──。
だが、そこで止まらなかった。
2023年、桜井会長は72歳にして再び動き出す。
舞台は、アメリカ・ニューヨーク。
しかも英語は話せない。それでも、「SAKEを世界に伝えるには、自分たちが現地で造るしかない」と考え、補助金も使わず自費でNY州ハイドパークに酒蔵を建て、妻と共に現地に移住した。
NYでの挑戦は想像を超える厳しさだった。
最初の仕込み6回はすべてNG。7回目も「ダッサイとは言えない」として、桜井氏自ら却下。
「これはダッサイではない。出してしまえば、「SAKE」の評判を落としてしまう。すなわち“日の丸”に傷をつけることになる」──その言葉に、背負ったものの大きさがにじむ。
そして8回目、ようやく「これなら伝えられる」と判断。
こうして生まれたのが、獺祭 Blue Type 23。
NYで育てた山田錦、NYの水、NYのスタッフと共に醸した、新しい獺祭。
名前に込められた「藍より出でて藍より青し」ということわざは、獺祭を超えるための獺祭という意志そのもの。
それは、単に“味わい”を楽しむ以上に、日本の文化と精神を異国で体現した一つの挑戦を、自分の舌で受け止めることなのかもしれません。